国内では、仕事も住まいもなく派遣村で不安の年越しをされた方々が多数おられ、またパレスチナのガザ地区では、国連を無視してのイスラエルの攻撃により、多くのこども達のいのちが殺戮されました。
不況と戦争という重い幕開けに政治の愚かさを歎きつつも、まずは足もとの地域で、生存権の保障に向け、「不退転」の覚悟で踏ん張るしかないと思っています。
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さて昨年末からしばらくブログを休んでしまいました。
休んだ訳は、長崎の母の容態悪化の知らせを受け、12月24日~1月6日まで急遽帰郷していたためです。
全ての予定をキャンセルし、覚悟しての帰郷でしたが、母は一時の危機を脱する事ができました。担当医師からは、奇跡的な生命力ですとの言葉をいただきました。
89歳になる母は5年間、介護療養型病院に入院しています。
二人の姉の毎日の献身的介護と、病院のきめ細かいケアの支援を受け、何より本人の生きようとする意志力により、この5年間を、生きぬいて来れたような気がします。
今回は心不全と肺炎をおこし、尿も出にくくなって体がむくみ、意識も混濁している状況でかけつけました。かけつけた時には横になったままで、まるで全力疾走でフルマラソンをしたかのような苦しい息使いでした。
私はそのサポートのような気持ちで、毎日病院に通いました。
峠を越え、1月6日に国立に帰ってきましたが、母があのまま逝かず、頑張って生き続けてくれたおかげで、私はほんの少しだけでも付き添いができ、母だけではなく、他の寝たきりのお年寄りやその家族の方々とも出会う事ができました。
万全のケアを受けつつ、懸命に生ききろうとする母達の姿はいのちの尊厳を教えてくれました。
介護療養型の施設は2年後には廃止されます。
「国は現場をわかっていない!」と母の病院の院長は嘆かれました。姉は国の廃止決定を聞いた時、泣いたとの事です。
医療面と介護面のサポートがあれば、家族も何より本人が、自分の生を慈しみながらまっとうできます。在宅でサポートする体制が未整備のまま介護療養型施設をなくすのは間違っていると頭では思っていましたが、今回の事で実感となりました。
議員なってからこんなに長く郷里にいたのははじめてです。母のおかげです。
方言も食べ物もきょうだいの感覚も、蘇りました。
大阪から帰っていた兄が、お正月のお雑煮を前に、「こうやって、みんなで会う事ができたのは、おふくろからのお年玉や」と挨拶をのべました。
その通りだと思いました。
【写真は、母の病室から眺めた長崎の風景です】
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6日に帰ってからは──
6日夜、「基地にNO!アジア・女たちの会」の集まりに参加。
7日、明和マンション裁判調査特別委員会
9日、行財政健全化についての全員協議会
10日~12日、姪の結婚式で娘と二人で京都へ、結婚式の後の時間を使い、娘のすすめで嵯峨野愛宕念仏寺に。
【写真は、念仏寺の猫を抱いたお地蔵さん】
14日、谷保天満宮近くの仮屋坂遺跡の説明板設置の要望に同行。
6時~ セーフティーネットについての社会福祉協議会としょうがいしゃ団体との話し合いに参加。
15日、明和マンション裁判調査特別委員会
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夜は22歳になった息子の誕生日を祝いました。
久しぶりのカラオケで、下手だけど好きな歌、『人生の扉』、『川の流れのように』、『無縁坂』、『あの鐘を鳴らすのはあなた』、『イムジン河』を歌い、娘から「お母さんの歌う歌って暗いね~~」と言われました
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また今日からブログを再開します。
時々は見てくださいね。
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